「人」の「間」に生まれるもの
必要なメールも打ち終わり、多少酔いの残る頭で久々に駄文を書く。
自分の考えとして「事実は小説より奇なり、しかし、その事実を選択しているのは他ならぬ自分である」というものがある。
僕は、運命論者でも偶然論者でもない。
運命とか必然とか偶然とか、そんなことはすべて後から振り返ったときの理由付けに過ぎないと思っている。
どんな人も、過去と現在を繋ぐ道の上にいて、そこから将来を探そうとしている。
まっすぐだったにしろ、曲がりくねっていたにしろ、その道を拓いて来たことに変わりはない。
では、偶然と必然、人生の転機で、何が違うのだろうか。
それは、「自分の意識」に尽きると思う。
一番分かりやすい例を挙げる。
私の知人の方の奥さんが、こういう話をしたという。
今まで公園には妊婦さんなどいなかったのに、自分が妊娠して公園へ足を運んでみたら妊婦さんだらけだった。何故なのか不思議。
もうお分かりだと思う。
自分が妊娠をしてみると、意識、関心、興味がそちらに移り、それが目に留まるようになっただけのことだ。
実際には以前にもその時にも、変わらぬ公園の風景があったに違いない。
この点と、上記に挙げた偶然と必然といった話は、密接にリンクしているように思う。
ある人が、自分を変える運命の人にであったという。
では、運命付けたものとは何だったのか。
自分の意識や興味が、その人を求めていた、それだけのことである。
これは、同じ人と話しても心動かされる人と、そうでない人がいる、当たり前の事実が裏付けている。
つまり、人との出会いは意識・無意識を問わず恣意的であり、選択的であるということだ。
結果として自分の人生も、どこかで自分の気持ちを反映した形で進行していくと思う。
これはいくらか記憶に似ているかもしれない。
よいこと、悪いこと。どちらも記憶に残るのは自分の心次第であり、またそれは後から追加されたり削除されたりする。
それは、あなたが無意識に決めることだ。
しかし。しかし。
ここで終わらないのが人間の相互作用である。
それぞれのベクトルが、各個人の想像を超えた何かを生み出し、人を超えてつながっていく。
無論それは人に依存することではなく、その中身はその日その時の各人のベクトルによって異なる。
僕は、そんな不思議なつながり、素敵なつながりが好きである。
最近は、その相互作用に、かなり能動的に参加できるようになってきた。
僕もその時間を大切にしたいし、また相手にも何かを持ち帰って欲しい。
本日のそんな機会を作ってくださった方々・その輪に加わってくださった方々に感謝感謝。
さてさて非常な駄文。
ロジックは通ってるのかしらん?
まぁいいや。駄文ということで、お読みいただきましてありがとうございました。
コメント
さてさて、いつもながらこの時間にやってきましたよ。
昨日はお疲れ様。様々なことが見えた日でした。それを生かしていかないと。
投稿者: bussan | December 17, 2005 05:48 AM